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クラウゼヴィッツ『戦争論』vol.012|戦術とは個々の戦闘を形成するもので、戦略とはその戦争をどう使用するのかを規定するものである

《参考図書》

 

《今話で取り扱う範囲》

  • 戦争術の区分(第2篇・第1章)

 

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戦術とは個々の戦闘を形成するもので、戦略とはその戦争をどう使用するのかを規定するものである

転職直後で社畜と化しており、更新が絶賛滞り中です。でも、備忘録だから別にいいやと自分に甘えています。

今回から第二篇です。まず第1章は「戦争術の区分」と題して、戦争を闘う上で用いられる知的活動の分類について語られます。タイトルがなんかわかりにくいですが。

 

 

まずクラウゼヴィッツは、戦争とは本来、闘争であり、それには身体的な力はもちろん、精神的な諸力も必要であると述べています。このあたりは第一篇でも同様のことが語られていたので、わかりやすいかと思います。そして人類はこの闘争の求めに応じて、さまざまな武器や装備、およびその使用法を発明・習熟してきました。

ですが、これらの武器や装備はあくまでも「手段」に過ぎず、闘争の本質ではありません。それは武器を用いようが素手で殴り合おうが、両者が同様に闘争であることからも明らかです(戦争が殴り合いの延長線上にあることは、すでに第一篇の冒頭あたりで説明した通りです)

 

よって、クラウゼヴィッツは、この武器や装備など「戦闘力を構成する要素」と、それらを「実際に使用すること」をわけて戦争術を考えていくことになります。具体的には「戦力を準備=組織すること」つまりは「手段」そのものの話と「準備=組織した戦力を使用すること」すなわち手段の運用の話に区分しています。前者には、武器や兵器の開発はもちろん、徴兵(兵士の準備)や訓練(兵力の準備)など戦闘力の創設にかかわることも含まれます。後者はその使用を目的とします。

後者は本書の中で「戦争指導」と呼ばれます。ちなみに、この「戦争指導」という単語は本書内で何度も出てくるのですが、決して「戦争を指導すること」ではない点に注意してください。意味するところは、字面通りの「指導」ではありません。わかりやすくいえば「将帥が下のものに指導=命令する内容」です。

 

そして、クラウゼヴィッツはこの「戦争指導」を、さらに2つに分けます。それは「一つひとつの戦闘を指導するもの」と「戦争全体を指導するもの」です。

第一篇の第1章で述べたように、戦争は一度きりで終わるものではありません(交互作用の話ですね)。もし一度で終わるならこの区分は必要ありませんが、戦争は複数の会戦がまとまって成り立っているものです。よって、戦争指導には各戦闘単位を指導するものと、全体を指導するものに分けて考えなければなりません。

 

本書においては、この前者が「戦術」、そして後者が「戦略」と呼ばれます。言い換えれば、戦術とは、会戦の勝利のための戦闘力の使い方を規定するもので、戦略とは戦争そのものの目的を達成するための会戦の仕方を規定するものだということです。

 

このとき、戦術のイメージはなんとなくつくかと思いますが、戦略のほうのイメージがつきにくいかもしれません。会戦そのものの使用法とは、そもそもなんでしょうか。

これは、会戦と会戦のあいだの行動を規定するものとでも考えるとわかりやすいかと思います。

戦争はいくつかの会戦から成り立ちますが、その会戦には当然「はじめ」と「終わり」があります。さて、ではこの「はじめ」と「終わり」とはなんでしょうか。簡単に言えば、戦端と勝敗です(ただの言葉の言い換えに過ぎませんね……)。戦端が開かれれば、それが会戦の開始ですし、勝利あるいは敗北が確定すれば、それが会戦の終了です。言い換えれば、この戦端の前と結果(勝利あるいは敗北)の後に付随する行動は、戦略の範疇にあたるということです(厳密には違うのですが、イメージはそんな感じです)

 

たとえば、第四篇・第12章に「戦勝を利用するための戦略的手段」という話があります。これは簡単に言えば「追撃」に関する話なのですが、追撃とは言い換えれば「会戦の勝利という結果を利用して実行される手段」です。勝利によって相手の勢力を削り、かつ敗走させたからこそ、追撃という作戦行動は可能となるからです。

こうした会戦の結果などを利用することで行われる手段を規定するのが「戦略」というわけです。

 

 

     *

 

 

さて、ここまでは戦闘力の使用の話ばかりでしたが、戦争にはもう一つ似て非なる活動があります。それは「戦闘力の保持」です。これは「戦闘力の創設」や「戦闘力の育成」と違い、「戦闘力の使用」と並行して用いられます。例としては給養や後方勤務(糧食の補給、傷病兵の看護、武器と装備の補給)があります。

ですが、これらも本質的には「戦闘力の準備」にほからないため、「戦闘力の使用」と並行して遂行されるものであっても、あくまでも「戦闘力の準備」の一つとしてみなしてよいとクラウゼヴィッツは言います。

 

ここで注意しなければならないのは、これらの戦争指導は、第一篇・第3章で述べた法則(闘争こそ唯一戦争の目的を達成するための手段である。その他一切の軍事的活動はここに帰着する)に背くものではないということです。これらの活動は、紛れもなく闘争のための手段であり、戦闘力の使用と同じ目的を志向するからです。たとえば、戦闘力の保持に該当はしますが、戦闘力の使用と並行して行われる軍事的行動に「行軍」「野営」「舎営」などがあります。

 

まず「行軍」(行進とも)は、戦闘中のもの(軍隊を展開するなど)はもちろん戦闘力の使用に該当しますが、ここで言っているのは戦時外の行軍です。これは「軍隊の使用」ではありませんが、軍隊の使用と厳密に結びついてはいます。なぜなら、いつ、どこで、どれだけの戦闘力をもって闘争を実施すれば良いのかを規定するからです。

たとえば、A地点に500人を行軍させるのと、1,000人行軍させるのとでは、いざ当地についた後に想定される戦争のあり方が変わってきますよね。それ以前に、そもそも「あそこの地で戦闘するために、軍隊をそこまで連れて行こう」という段階で、そもそも戦闘に関係した行軍です。言い換えれば、行軍は戦場に戦闘を適宜配分する手段というわけですね。その点で戦時外の行軍も戦争力の使用に関係し、戦略的なだけではなくて戦術的でもあると言えます。

ただ当然ですが、これらの戦闘以外の行動をいくら組み合わせても勝利は得られません。

 

「野営」は「舎営」と違って、戦闘準備を完了した戦闘開始前の休憩状態です。つまり、もう戦端は開かれていますので、戦術的なものです。ですが一方で、野営地は戦闘地域に設置された段階で、そもそもそこを戦闘地として想定していることがわかります。つまり、野営前に「ここで野営する」という決定を下しています。その点で戦略的でもあります(実際にどんな戦争を実施するかを念頭に置いた上で、戦地=野営地を決定しているということです)。よって、野営は戦略的でもあり、また戦術的でもあります。

 

「舎営」は「野営」よりも兵士の休息に重きを置いている点で野営とは異なりますが、そのなかには野営地の設営やその清掃などといった、闘争とは直接に関係ない行動も含まれている点には要注意です。また同様の理屈が築城についてもあてはまります。築城の位置や装備は戦術的事項ですが、その工事は戦闘(戦争指導)となんら関係がありません。

なおこの3つについては、いずれも中巻で出てきますので、詳細はそのときに回します。

 

給養はどうでしょうか。

これは「戦闘力の保持」に該当する行動ですが、食料は戦闘の担い手である兵士たちに日々欠くことなく供給されなければならない点から、限りなく戦闘力の行使に近い活動であると言えます。たとえば、給養が戦闘自体に影響を与えることは極めて稀ですが、そのような事態がないとも言えません(戦闘が不可能なレベルで給養が断たれるなど)。その意味では、給養は「軍事的行動における戦略的な構成要素」であり、ここから戦闘力の使用と戦闘力の保持のあいだに一定の交互作用が生じることが分かります(給養が完全に断たれれば、戦闘力は行使できない)

ですが、だからといって、保持の行動が使用の行動より重要性において上回ることは決してありません。戦争の本領はあくまでも闘争です(これは武器の補充においても同様です)

 

では、後方勤務はどうでしょう。

傷病兵の看護などは、たしかに兵士・兵力に直結する問題ですが、しかしその規模は全体から見れば物の数ではないことが多いです。よって、彼我の戦闘力の差に極めてわずかな影響を与えるだけであり、戦闘力の保持を脱して戦略的に影響を及ぼす活動とは言いがたいでしょう。

ですが、例外はあります。たとえば、野戦病院や武器弾薬貯蔵庫が前線からあまりに遠いなどといった事情は、戦略的に無視できるものではありません。

 

ただここで重要なのは、給養でも述べたように、そうした「戦闘力の保持」に関する行動を「戦闘力の使用」すなわち「戦争指導」よりも重要視してはならないということです。個々に極めて重大な例外があると言っても、戦争指導が最高位というのは揺るぎない優先度である、というのがクラウゼヴィッツの主張です。

 

 

     *

 

 

まとめましょう。

まず戦争に関する行動は、大きく二つに分けられます。それは「戦争のための準備をする活動」と「戦争そのもの(闘争)」です。そして前者は、戦闘力の創設、訓育、そして保持に関するもの。築城術、砲術などが該当します。そして後者は、前者によって産み出されたものを前提として、その手段としての特性(どんな結果をもたらし得るのか)を理解して用いる良いものです。それすなわち、クラウゼヴィッツが定義したところの「戦争指導」です。

 

そして、野営や舎営、行軍や後方勤務などは、戦争に影響を与え得るのか否かによって、戦略的な行動か戦術的な行動かが分かれます。ただし、それらは戦争指導の本来の対象ではないため、戦争指導においては上述の準備活動と同様、すでに与えられている前提条件として考えられるべきものです(少し上で出てきました、これらによって戦争のあり方が一定規定されるということです)

 

ここで戦略と戦術が分岐しましたが、狭義の戦争理論は、この戦術と戦略の二つに分かれます。前者は個々の戦闘を形成するもので、後者はその戦争をどう使用するのかを論じるものです。ただし、この区分が実際の戦争に大きな影響を与えるという誤解を抱いてはなりません。このような区分が戦争指導に多大な影響を与えることは、まずないからです。実際、上述の野営や給養などの例から、両者は密接に関係していることが分かりますよね。

では、なぜこのような理論が必要なのでしょうか。それは戦争という概念を整理するためです。概念やその特性を整理することで初めて、それらを効果的に応用して戦争を実行することができます。つまり、実際の現場における運用を考えての区分ではなく、あくまでも事前の理論構築の段でこのほうが都合が良いということですね。

 

 

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《露骨な宣伝》

趣味で海戦の小説を書いていたりします。

 

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