cachikuのブログ

元「本を読んだ気になるブログ」です。個人の備忘録である点は変わりません。

『りゅうおうのおしごと!』がバトルものラノベ創作を学ぶ上で必修課題だと思う理由(にかこつけて同作の魅力を語るだけの記事)

あけてました。というわけで、新年一発目は欲望を爆発させるだけの、ただ思うがまま書き殴るだけの記事でいきたいと思います。アニメ開始前に、復習で改めて読み直したので、なんとなく。

 

このブログの中では事あるごとにりゅうおうのおしごと!大好きアピールを繰り返していますが、今回は創作論について考える形を取りつつ、その好き好きアピールを爆発させただけの内容となっております。しかも長いです。カウントしたら総計1万3,000文字を超えていました。

 

そのため、お時間がない方・ラノベに興味がない方などにとっては拷問なだけですので、この段階でブラウザバックしていただくほうがよろしいかと思います。

また先に白状しておきますと、本記事は欲望のままに書き殴っております関係上、途中で大いに脱線したり、それ見出しorタイトルと関係ないやんという箇所があったり、まとまりがなかったりと、とにかく支離滅裂です。

 

もしそうした点をご甘受いただけましたら、「続きを読む」をクリックいただければと思います。そして一つでもためになりましたら幸いです。

 

 

というわけで、これより下はやりたい放題です。

自分が一番好きなラノベだから贔屓目に見ているだけかもしれませんが、自身の執筆歴を振り返ると、『りゅうおうのおしごと!』と出逢った前後で自分なりの創作論がガラリと変わりました。拙作『高卒参謀長と《白鯨殺し》の少女』がGA文庫大賞で最終選考に残れたのは、間違いなく同作から頂いた力のおかげだと言い切れるほどに。

その振り返りや整理を兼ねてまとめているのが、本ブログで書いている創作論です。特にバトルもの創作において、同作は必修科目だと思っています。

 

では、なぜ『りゅうおうのおしごと!』が、バトルもの創作を学ぶ上で有益だと思うのか、つらつら書いていきたいと思います。

 

 

 

棋界最高位の八一が、とても等身大の人間である

史上4人目の中学生棋士、史上最年少タイトルホルダーという倍率ドン!さらに倍!な感じで棋界最高位の一角を担う主人公・九頭竜八一竜王

そんな彼、周りにはたくさんの幼女やツンツンした幼馴染、巨乳のお姉さん方とハーレム状態。しかし本人は周囲が抱く好意に対して酷く鈍感という、テンプレの粋を結集させたような少年です。

 

・・・と。ここで終われば、テンプレキャラで終了なのですが、彼の魅力はその先。それは、とにかく「等身大で人間らしい」ということ。

彼は年頃の少年のように、喜び、怒り、泣き、笑います。人として、良い意味できれいであり、また良い意味で汚くもあるのです。そして、この「汚い」という部分が、個人的にすごく好きです。

 

例えば、第1巻・第1譜「あいがかり」の章。あいが弟子入りを志願にやってきた際、実力を見極めるためにと一局打つことになります。このとき八一はあいが力勝負を挑んできたのを目にして「………舐められたもんだな……」と呟きます。

あと、なんといっても忘れてならないのは、第5巻・第2譜「スピニングドラゴン」から第3譜「逡巡の恋」にかけて。

竜王位防衛戦で3連敗を喫した八一が、天童駅のホームで自身の写真を撮る鵠を「ウザい」と思い、不貞腐れたように彼女を振り切って新幹線へ乗り込むシーン。

帰宅後、マイナビ本戦へ向けて指導をお願いしたあいとの将棋で八つ当たりめいた暴挙に出て、自己嫌悪に陥るシーン。

そして様子を見に来た姉弟子の気遣いに対して「たかが奨励会員になにができる」「三段リーグも経験してないような温い将棋とは何から何まで違う」などと露骨に見下した暴言を吐き・・・再び自己嫌悪に襲われるシーン。

 

もう、いかにも年頃の男の子なわけです。あいの時の暴挙で一度は自己嫌悪に陥ったはずなのに、姉弟子の時にその反省を生かすことなく、自身を御し切れずに暴言を吐いてしまうあたりとか、もう本当に等身大の年頃の少年といった感じで、そこがすごく魅力的なのです。

 

 

ほかにも、第3巻・第1譜「天敵」の冒頭、プロとしての初公式戦で山刀伐との一局もすごく印象的です。八一は「正直ナメてた」相手に惨敗し、泣き叫びながら現場より逃亡。茅ヶ崎まで走り続け、連れ戻しにきた姉弟子に「もう将棋やめる!」とゴネました。

こんなの、目頭が熱くなるしかないわけです。「あー、あったよなぁ、こういう経験」と。千駄ヶ谷から茅ヶ崎まで走るほどの悔しがり方はしませんでしたが、好きだったことを嫌な思い出と一緒に捨て去りたくなる経験は何度もあり、もう共感しまくりなわけです(もっとも、それでも立ち直った八一と違い、豆腐メンタルな筆者は、いくつもあっさり捨て去りましたが。苦笑)

 

     *

 

ちょっとバトルもの創作論に話を寄せましょう。

 

筆者は「人は、完璧な人間には共感・感情移入しにくい」と考えています。

強くてきれいな主人公は、とても格好良いです。正義に燃えて悪を打ち倒す、そんな勧善懲悪タイプのヒーロー、筆者も昔から大好きでした。ちなみに、小さい頃に最も好きだったメディア作品は『暴れん坊将軍』です(笑)。正直『ドラゴンボール』とかより好きでした。

ですが、将軍様にはなかなか感情移入できませんでした。

もちろん幼少期にそんなこと気にしながら作品を観ていませんから、理由は定かではありません。ただ振り返ってみて行き着いた結論は、将軍様があまりにも完璧超人だからではないかというもの。「最後にはどうせ勝つ」とわかっている以上、感情移入しにくいのではと思いました。言い換えれば、その「わかりやすさ」が幼稚園児の自分でもハマれた理由なのかもしれません。

 

この共感・感情移入というのは、創作においてすごく大切だと思っています。理由は、読者が作品に没入できるようにするためです。

バトルものやファンタジー世界を舞台にした作品は、そもそもが「あり得ない世界」です。そのため、読者の誰一人としてその世界のことを経験したことはもちろんありません。ですので、ただ読んでもらうだけで作品世界に没入してもらうことは、極めて困難だと考えています。

 

さて、ここでいう「没入感」とは?

筆者は「キャラクターの後を追いかけたくなる感覚」だと考えています。そのキャラクターがこの先なにをするのか? どう変化していくのか? そうしたキャラクターの歴史に寄り添いたくなる感覚を「没入感」として定義しています。

なぜそう定義したのか? それは自身が作品を読んでいて、続きが気になる作品、気がついたら時間がたっていた作品に共通して抱いていた感覚が、このようなものだったからです。

 

だからこそ、主人公は「等身大」であるべきだと思っています。作品世界と読者の世界をつなぐ、橋渡しする存在として。バトルに敗北した後、健闘を称え合ったり、もっと強くならなければと使命感に燃えたりするだけでなく、隠れて泣くほど悔しがる、その悔しさ・不甲斐なさを八つ当たりでぶつけてしまう・・・そんな等身大の主人公。いわば「第2の読者」ですね。

 

八一は筆者にとって、まさにそんな主人公の代表格なのです。

彼は将棋が強い一方、作中でさまざまな弱さも露呈していきます。また将棋でも何度も敗北しています。その弱さ故に「どうなるの? 勝つの? 負けるの?」と展開を追いかけたくなるのです。ハラハラドキドキするわけです。それがあまりに心臓に悪くて、結論だけ先に確認しておきたくて、つい途中経過をすっ飛ばしたくなる誘惑に駆られるほど(特に第5巻の竜王位防衛戦は、初見時に我慢するのが大変でした。笑)

 

     *

 

もっとも、万人に感情移入してもらえる作品を生み出すことは不可能。ですから、大切なのは自分が想定する読者層が「共感・感情移入」できるよう配慮すること、そして自分が書いていて楽しいキャラクターであるかどうかだと思います。

前者はラノベの場合、読者は10〜30代でしょうから、彼・彼女の人生経験などを想定して感情移入できるキャラクターを創造することになります。ただし、10代と20〜30代はかなり異なる人生を送りますから(前者は学生で後者は社会人)、どちらかに焦点化したほうが良いと思います。

そして、その上で参考になるラノベを探し、何度も読んで「なぜ自分はこの主人公に感情移入できるのか?」を見極め、それを自作に応用することが大切だと思います。筆者にとっては、それが『りゅうおうのおしごと!』であり、九頭竜八一という少年でした。

 

もちろん書き手によって好きなストーリー展開や表現の幅、キャラクターの性格・価値観などが異なりますから、学ぶべき作品は人それぞれです。例えば、シンプルに強い敵をバンバン出していくことで、この課題を解決するという手法が好きという方もいるでしょう。『ドラゴンボール』に代表されるジャンプ的な見せ方です。それでも、同作はかなり多くの方の参考になるのではないかと思っています。勝手に。

 

ちなみに、筆者が『りゅうおうのおしごと!」に感情移入できたと判断した理由は「泣けたから」です。創作の参考にするため、2015年以降ほぼ毎朝電車の中で読んでおり、その度に目を潤ませていました。いつも電車が同じ人には、きっと変人だと思われていることでしょう。笑。

 

     *

 

余談。

別記事で挙げたキャラクターを創造する4ステップですが、もうおわかりのとおり、八一との出逢いがベースとなっています。なぜ彼はあんなにも魅力的なのか? それを考え続けた結果、自分なりの結論として導き出したのが、あの4ステップでした。

 

 

smug.hatenablog.com

 

姉弟子がデレない、桂香がドロドロしている

先の話と少し内容が被りますが、構成の都合上あえて別に分けています。ご容赦。

 

ツンデレ」というテンプレがあるように、ラノベのヒロインはたとえ主人公にツンツンしていても、大抵は作中のどこかでデレてくれるものです。

ですが、姉弟子・空銀子は、デレない。とにかくデレません。2018年1月1日現在、6巻まで刊行されていますが(間もなく7巻!)、欠片もデレずに八一を足蹴にするわ、罵声を浴びせるわ、さながら暴君の如しです。

 

でも、それがいいのです。理由は八一と同じく等身大だから。

 

もちろん八一同様にネタキャラと化している面もあります。第3巻・第3譜「マッサージ」とかは典型ですね。いくらムカついても、いきなり知人の後頭部を踏んづけてストンピングし始めるJCとか、まずいないでしょう(JCに限らずですが)。第6巻・第3譜「桜ノ宮」から「銀子の朝」までの一連の展開も、さすがに現実としてはあり得ないと思います。

(もっとも、あれは「ラブホテルに連れ込む」という非現実性によって、姉弟子の不器用なまでの一途さを際立たせることが目的のような気もします。あとはエンターテインメントとしての都合でしょうか)

 

・・・が。

その裏にある、素直じゃない(になれない)、でも一途な少女の心は、まさに等身大そのもの。

特に第6巻・第3譜のラブホテルでのやり取り(こう書くと妙な感じですね。苦笑)。さらなる強さを求めて、あらぬ振る舞いに出る姉弟子。あの姿はもう痛々しくて堪りません。人間、精神的に追い込まれますと、リアルに情緒不安定・支離滅裂な言動をしだすものですが、そうした経験がある方にとって、あそこは胸が締めつけられるシーンだったのではないでしょうか。

デレないという話から徐々に逸れてきましたが、そんなところです。他にも創多との一戦における姉弟子などいろいろ書きたいことあるのですが、いちおうタイトルのメインは創作論のため、ここらへんでストップします。

 

 

(気になる方はこちらを)

 

 

そして同作がなにより凄いなと思うのが、そうした等身大のキャラクターがすんなり受け入れられることです。

 

自分自身やってみて思ったのですが、等身大のキャラクターは書くのが本当に難しいです。より具体的に書けば、人としての「汚さ」を「良い意味で」言語化するというのは、とにかく難しいのです。

なぜか? 内心や本音が全開のため、読んでいて「イライラする」「鬱陶しい」「ウザい」と思われるリスクがあるからです(白状しますと、筆者はこの感覚のためにクリアや読破を諦めたゲームやラノベが数作ありました)

 

りゅうおうのおしごと!』において、その筆頭は桂香でしょう。読者の中には、あるいは彼女の第3巻における振る舞いを受け入れ切れずに、離れてしまった方もいるのではないかと思っています。

ですが、この第3巻の桂香こそが、キャラクターの清濁を言語化するバランス感覚を学ぶ上で、とても参考になると筆者は思っています。

 

筆者にとって、桂香はすごく魅力的なキャラクターでした。とにかく人間臭くて。第3巻・第2譜「着せ替え人形の決意」における下心、同巻・第3譜「桂香の記憶」における銀子に対して抱えていた彼女を「目障り」と切り捨てるほどの苛立ち。どれも本当に人間らしいのです。

ですが、こうした言動は読者に「身勝手」「ムカつく」などの負の感情を与えてしまいかねません。このリスクを抑えつつ、キャラクターに良い意味で汚い面を発揮してもらうためには、どうすればいいのか? この『りゅうおうのおしごと!』第3巻の桂香に出逢ってから、相当に悩みました。

 

 

 

 

創作論に話を寄せましょう(ここはバトルに限らない汎用的な内容です。申し訳)

桂香が読者に負の感情を与えることなく、しかし良い意味で「汚い」面を発揮できているのには、2つの要因があると思っています。

1つは、セリフと地の文の書き分け。もう一つは「きれい」なエピソードと「汚い」エピソードの配置順です。

 

まずは前者。

わかりやすい参照先は、先ほども紹介しました第3巻・第2譜「着せ替え人形の決意」。ここでの桂香は、セリフで銀子の弱みをついて指導を頼むという「汚い面」を装い、地の文でそんな自分を毛嫌いする「きれいな面」が表現されています。つまり「汚い面」だけが目につかないように配慮されているのです。

 

続いて後者。

例えば、第3巻・第3譜「桂香の記憶」。ここでは高校時代の桂香が、それまで嫌っていた銀子に心を許すようになったエピソードが語られます。

この時、まず銀子を嫌っていたエピソードが先に出ます。つまり「汚い面」ですね。そしてその後、銀子に心を許すという「きれいな面」へ話が移っていきます。このように「汚い→きれい」という順番で構成することで、たとえ章が区切られて話が変わっても、読者の中で桂香は「嫌なヤツ」のままにならずに済みます。

ただし、ストーリーの都合上、どうしても後半で「汚い面」を出さないといけないこともあるでしょう。それが同巻でいえば、第5譜「盤外戦術」以降のストーリー。桂香は対局室に入ってから常時「汚い面」だけを見せ続け、天衣との一局ではそれが頂点に達します。しかもこのときの視点は八一にあるため、彼女の「汚い面」をセリフと地の文を書き分けることで中和することはできません。

 

ここで凄いなぁと思ったのは、全体の構成でした。

筆者は、なぜここで自分が桂香に対して欠片もネガティブな感情を抱いていないのか不思議に思い、理由を考えてみました。

 

結果として行き着いたのは、作品全体の構成=それまでのエピソードすべてを通して、筆者が彼女を「汚くもきれいな人物である」として認識しているからではないか、という理由でした。

例えば、第3巻・第2譜「清滝桂香」における同窓会のエピソード。これが冒頭にあることで、その後に登場する「汚い面」が、ただ純粋に「汚い」ものではないことがわかります(先に出すことで後付け感がなくなります)。それ以外に、同巻・第4譜「象と蟻」なども、同目的を達成する上で非常に効果的な挿入話だと思われます。

つまり、作品全体の随所に桂香の「きれいな」エピソードを挟むことでキャラクターイメージを「きれい」に寄せているからこそ、たとえ「汚い」面に関するエピソードしかないシーンでも、ネガティブな印象を抱くことなく済んでいるのかな、と。

 

泣けるほど熱い展開

ほかの記事でも書きましたが、名人との竜王位防衛戦は読んでいるだけで涙が出ます。もう優に100回以上は読みましたが、今でも変わらずに泣けるほど熱いです。

第5巻・第4譜「イオニゼーション」から第5譜「来るべきもの」で決着がつくまでは、いつ読んでも目が潤みっぱなしです。

「イオニゼーション」での、月光の過去の描写と戦況分析の語り口(月光のセリフは基本的に熱くてゾクゾクするものが多いですね)

「クライミングドラゴン」での、一度は心の折れかけた八一が仲間の思いを背負って立ち直り、名人に食らいつく描写(特に最終盤を迎えるp.264から同章終了までのスピード感と臨場感が最高です)

「盤上のファンタジア」での、再戦にかける八一の気迫。

そして「閃々散華」での、天衣、歩夢、JS研の面々をはじめとした、対局に向ける想い(天衣からJS研の面々までの3シーンで、いつも涙腺が決壊しています。苦笑)

 

この一局は、バトルもの創作の際にも、本当に参考にさせていただきました。それまで手探りでずっとやってきたバトルシーンの描写において、新人賞のレビューでも「爽快感がある」「臨場感があって良い」とコメントをもらえるようになったのは、間違いなく同作(特にこの一局)との出逢いがあったからこそです。

 

無駄を省いたシンプルかつ巧みな表現

りゅうおうのおしごと!』は、バトルの表現手法を学ぶ上でも必修だと思います。特に「短編をつないで長編とする手法」と「その短編の中で端的に伝えるべきを伝える手法」は、スピード感や臨場感が命のバトルもの創作に取り組む筆者にとって、非常に学ぶものが多くありました(そして、まだまだあるとも感じています)

 

同作は5〜10ページくらいの短編を35編くらいつないで構成されています。全体で300〜350ページほどですね。そしてラノベは1ページあたり、約40文字*35行前後(同作は42文字*34行)くらいが基本です。よって、同作は1編あたり約1,400文字*5〜10ページとなり、約7,000〜14,000文字で書かれていることになります。

 

この7,000〜14,000文字を多いと取るか少ないと取るかは人それぞれでしょう。筆者自身の場合、7,000文字は「短い」、14,000文字は「どちらかというと短い」といった感覚です。どちらにしても短いですね。

 

その「短い」中で、どの章にもきちんと盛り上がりや惹かれるポイントを設け(35編もあるのに!)、作品全体を通して飽きさせない工夫が凝らされている点が、同作の凄い点の一つだと思っています。

 

     *

 

さらに同作で凄いと思うのは、対局描写。具体的には、将棋の描写と対局者の勝負に賭ける思いなどの心理描写を両方盛り込みつつ、短いページ数に抑えているという点です。

自分ごとですが、筆者はバトル描写に心理描写を挟むと、どうしてもページ数が増える傾向にあります。なぜなら、心理描写で臨場感を出すために反復表現を多用する癖と、バトル描写で細かく書きたがる&改行を多用する癖があるからです(現状そうしないと書けないので、そのまま書いています)

ですが、これではどうしたって作品が冗長化します。そして冗長化すると、バトルシーンの命であるスピード感が落ちます。

 

同作では、対局の中でコアとなる表現は何なのか? どこをピンポイントで伝えれば、最低限読者にその魅力が伝わるのか? そのあたりがかなり練られているのではないかと思います。それによって、短いページ数の中で対局描写と心理描写の両立が見事に達成されているのではないかと。この最低限の描写のポイントを掴むコツは、特にバトルもの創作者にとっては必須ではないかと思っています。

 

     *

 

ざっと抽象的な話だけをしてきましたので、具体例を挙げます。

 たとえば、蹴りを放つシーンを考えます。

 

一言で「蹴り」といっても、その中にはさまざまな要素があります。蹴りの種類やその速度、放った時のキャラクターの状態(ex. 満身創痍、絶好機)や特徴(ex. その蹴りが特技である)など。

では、これらは作中においてどこまで表現すべきなのでしょうか?

 

この蹴りを端的に「右回し蹴り」と一単語だけで表現したとしましょう。この場合「どんな蹴りか?」=「種類」は伝わりますが、一方で「速度」は犠牲にされます。

ですが、戦闘シーンを「単語」や「体言止め」を改行で連続させていく形式で表現する場合、この「速度」に関する表現は必須ではありません。なぜなら表現形式それ自体でスピード感を代替できるからです。よって「神速の右回し蹴り」などと速度表現をつけてしまうと、一単語とはいえ読了が増えることでスピード感やテンポ・リズムを削いでしまいかねません。

 

筆者は新人賞に応募していた頃、バトルシーンを書く際はこのスタイルを採用していました。理由は2つ。一つは単純に「慣れていたから」。そしてもう一つは「用いる技術が高度ではないため、誰でも簡単にできるから」です。

特に後者の理由が大きいですね。ラノベを書き始めた当初は、バトル描写のコツがまるで掴めずに泣きたくなりましたが、この手法に行き着いてからはバトル描写の評価が一気に上がり、なんとか一皮むけました。

成功を確約はできないのですが、もし同じように「バトルをどう書いたら良いのかわからない」と悩んでいる方がいらっしゃったら、試しにやってみていただきたいです。意外と合う方がいるのではないかと思っています。簡単ですし。

 

余談ですが、このスピード感の表現法は森博嗣さんの名作『スカイ・クロラ』から学ばせていただきました。あの作品は設定の説明などがかなり抑えられており、その(本来語られるべき)設定に関する主人公の心理描写を中心に作品が進みます。空戦シーンに関しては、ほぼ「単語+改行」のみで淡々と進むのですが、このスピード感が本当に凄いのです。あれだけ作品全体が落ち着いた雰囲気の世界観の中で、そのギャップがまたとても味わい深いのです。

 

 

スカイ・クロラ (中公文庫)

スカイ・クロラ (中公文庫)

 

 

 

もっとも、この描写法は『スカイ・クロラ』の作品世界の中だからこそ通用したものだとも思っています。よって、実際には『スカイ・クロラ』の空戦と『りゅうおうのおしごと!』の対局をミックスしたものが、筆者の今のバトルシーンの描写法となっています。

長々と書きましたが、要は「表現」を極力削っても、改行や体言止めなどの「技巧」を用いれば、ほぼバトルの事実描写のみを連続させるだけでもスピード感や臨場感を担保できるということですね。ただし、この手法は全体のページ数を増やすことにもなりかねないため(改行が多くなるため)、ページ数が増える=バトルが長引いて見える=結果的にスピード感が落ちるように感じるリスクもあります。

 

     *

 

対して、一文の分量を増やして速度表現なども盛り込めるようにし、かわりに改行を減らす見せ方もあります。それによってバトルシーンに割くページ数を削減し、短文+単語連打・体言止め+改行ではなく、別のやり方でスピード感を意地するのです。

実際『りゅうおうのおしごと!』の対局シーンは、こちらの形式ですね。一文が1.5行くらいの箇所がとても多く見られます。ですが、スピード感(と臨場感)はまったく損なわれていません。

 

なぜそのようなことが可能なのか? これがすごく不思議でした。

 

そこの言語化は今、奮闘中というところなのですが、(別記事でも書いたように)一つは(比喩)表現にあると思っています。

同作でいえば、第5巻・第4譜「クライミングドラゴン」がわかりやすいでしょうか。この箇所では、将棋の局面がどうなっているのかは、ほとんど書かれていません。かわりに八一の心理や対局風景の比喩表現が満載です。そして、この単語選びのセンスが自然とスピード感(と臨場感)を生み出しているように感じます。

 

ほかにも同作は、この(比喩)表現の巧みさで、読者が自然と引き込まれるほどのスピード感や臨場感を演出している場面がいくつもあります。個人的にそう感じたところをざっと列挙しましょう。

 

*第1巻・第1譜「あいがかり」

特にp53。八一が眼鏡をかけた後。「小さな殺し屋」との「乱打戦」が始まるところです。この2つの単語だけでも、盤面でどれだけ激しくぶつかり合っているかが鮮明に伝わりますよね。

 

*第1巻・第5譜「プロ」「奨励会員」

なんといってもp.251〜p.255。姉弟子の登場シーンは何度読んでも鳥肌ものです。そしてp260〜p.271。あいと姉弟子の一局。形勢が逆転してからの一連の流れは、いつも目が潤みます。そして創作論としても、ここは「表現によるスピード感(と臨場感)の演出」「小刻みな展開を連打することでのスピード感(と臨場感)の演出」を学ぶ上で、極めて宝庫だと思っています。

 

*第2巻・第4譜「天衣無縫!」

p.221〜p.225。あいと天衣の一戦。特に天衣が「踊り」始めてからの局面は、後半にいけばいくほど比喩表現が効果的に使われていると感じます。

あと、このシーンを読んでいて常に思うのは、八一の心理描写の巧みさ。盤面の事実とそれに対する彼の所感がバランスよく織り込まれており、それが臨場感につながっているように感じます。

りゅうおうのおしごと!』における、このスピード感や臨場感の描写においては、一文は基本1.5行、そのうち1〜1.2行が盤面状況などの事実描写、残り0.3〜0.5行が観戦者や対局者の心理描写となっている気がします。そして後者の0.3〜0.5行は「熱い!!」「強手!」「凄まじい勝負度胸!」などの1〜2単語レベル描写や体言止めに感嘆符を併せたものが多いですね。このバランスと表現の使い方が、同作の魅力的なスピード感・臨場感につながっているのではないかと、筆者は思っています。

ただ、もちろんすべてのバトルシーンに、このバランスが適用できるとは限りません。拙作の話で恐縮ですが、現在このあたりの練習のために「小説家になろう」に投稿している作品で、シリアスの背景を持ったバトルで試してみたのですが、あまりしっくりきませんでした。筆者の腕不足なだけの気もしますが、あるいはバトルの性質にとっては向かないケースもあるのかもしれません。

 

 

 

 

*第3巻・第4譜「勝利の痛み」

後半で巨匠と八一が名人や山刀伐八段について語り合います。ここは対局シーンではありませんが、バトルシーンに応用できる表現の宝庫として、学ぶべきが本当に多い一場面だと思っています。特に巨匠の山刀伐に対する評価ですね。

ちなみに巨匠は、筆者が同作で一番好きなキャラです。格好良いおっさんってホントいいですよね! ね!(猛烈アピール。笑)

 

*第3巻・第4譜「百億の挑戦と千兆の死の」

序盤の落ち着いた雰囲気から、徐々にスピード感が上がっていく過程が非常に参考になりました。どちらかという「スピード感を徐々に釣り上げていく構成」の面でたくさんを学ばせていただいたシーンですが、表現選びでも多くを教わりました。特に別記事でも書かせていただきました「中2表現の効果とその使い方」の感覚を身につけたのは、このシーンでした。

 

*第3巻・第4譜「中飛車中飛車

あいと飛鳥の一局。

ここはとにかく青臭くて好きです。大人になるとこういう青臭さを揶揄しがちなものですが、自分が「33歳児」なせいもあると思いますが、やはりこうした古き良き熱血感はいつの時代も変わらずに心と目頭を熱くしてくれるものだと感じます。

りゅうおうのおしごと!』が教えてくれたのは、この「熱血が今の時代でも変わらずに通用するものである」ということでした。

もともとそうした王道が好きだったのですが、昨今の潮流ではどちらかと揶揄されがちなこの傾向を作品に盛り込んでも良いものかどうか、ひどく迷った時期があります。当時は新人賞受賞をめざしていたので、「自分が好きなもの」を書くことを大切にしつつも(そうじゃないと面白くないですしね)、やはり「マーケティングを踏まえた上で書くべきもの」に寄せる必要はあると考えていました。

そんな時に「大丈夫だよ」と勇気を与えてくれたのが、『りゅうおうのおしごと!』でした。以来、とにかく青臭い王道路線を踏まえることに安心感を持てるようになり、本当に気楽に作品を書けています。その意味でも、同作と出逢えたのは本当にうれしかったですね。

 

*第3巻・第5譜「小さな魔法使い」

あいがさまざまな悩み・苦しみを乗り越えて「負けたくない」本心を爆発させ、桂香との一局に臨むシーン。ここのあいちゃん、格好良いですよね。ね。

ここではとにかく細かい表現の使い方を学ばせていただきました。特に接続詞のような本筋をつなぐ諸々の表現の使い方が大きかったです。「あくまで」「まるで」「さながら」「あるいは」「そして」などなど。

これらの表現はついつい使いたくなります。なぜか? その一語で場面を転換したり、臨場感を手軽に演出できたりするからです。ですが、故に安易に頼りたくなり、その手の表現が増え過ぎて、具体的な情景が伝わらなかったり、マンネリ化して読者の飽きを加速させてしまったりするリスクがあります。

その解消のコツを、この章からは学びました。そしてまだまだ感覚を言語化できていない行がたくさんあるので、まだまだ学べるとも思っています。

 

*第4巻・第5譜「神を見た夜」

名人と歩夢の一戦。挑戦者怒濤の猛攻から驚愕の一手で王者がすべてを引っくり返すという王道展開。それを学ぶ上で、これほどのシーンもないと思います。

特に歩夢の攻勢の際に挟まれるセリフの使い方が良いですよね、ここ。ほかにもさまざまな場面で同様の描写が登場しますが、最も熱量高まるのは個人的にこの場面と「閃々散華」における歩夢の場面です(思えば、どっちも歩夢ですね)

このセリフの使い方は、正直かつ露骨な言い方をしますと、堂々とパクらせていただいています。苦笑。

 

 

 

 

・・・と。

ここまで書いてきてさすがに長いので、切らせていただきます。

というかもうここまでなにを書いてきたのか、まるでわからなくなってきました。そもそもタイトルどおりの内容になっているのかどうかも・・・。新年一発目くらい書きたいことを書き殴ろうと思って、欲望のままに突き進んできた結果がコレです。

というわけで、ここで終了。

またちょこちょこ別記事の形で、少しずつ切り分けて具体的に書いていけたらなと思います(また本記事も可読性を高めるために、ちょこちょこ修正するかもしれません)