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cachikuのブログ

元「本を読んだ気になるブログ」です。個人の備忘録である点は変わりません。

コーベット『海洋戦略の諸原則』vol.001|何のための戦争か目的が分からないと参謀は軍隊を鍛えることしかできない

《参考図書

  • コーベット『海洋戦略の諸原則』(原書房、矢吹啓訳)

 

《今話で取り扱う範囲》

  • 戦争の理論(第1部・第1章)

 

     ◇

 

何のための戦争か目的が分からないと参謀は軍隊を鍛えることしかできない

昨年の9月に原書房さんから邦訳が出版されたコーベットの著作です。それ以前にも『戦略論大系』シリーズなどで出てはいましたが、同社からの邦訳のほうが個人的には綺麗で読みやすいです。あと本としての出来も綺麗です。苦笑。

 

並行して更新しているクラウゼヴィッツ『戦争論』は、一行一行を丁寧に追って、可能な限り漏れなく解説するようにしますが、こちらは気楽に流し読み程度の解説を書き殴っていきます。

 

今回は第1部・第1章の「戦争の理論」についてです。

 

 

*「海軍戦略」と「海洋戦略」の違い

まずコーベットは「海軍戦略」と「海洋戦略」の違いから話を始めます。

では、最初に「海洋戦略」とは。これは「海が重要な要素となる戦争を司る原理」だと、コーベットは言います。

これに対して、一方の「海軍戦略」を、彼は次のように定義します。

 

陸上部隊の行動に関連して艦隊が果たさなければならない役割を海洋戦略が決定したとき、艦隊の運動を決定する指針」

 

つまり、海軍戦略は海洋戦略の一部いうわけですね。

では、コーベットはなぜそう考えたのか? それは、戦争の勝敗が海軍の行動によってのみ決定されることは、まずあり得ないからです。戦争における海軍の役割は「敵の消耗」であり、陸上部隊の援護がなければ勝利を手にすることはできない、これが彼の考え方です。

 

よって、海洋戦略は、まず「戦争計画における陸軍と海軍の相互関係を決定すること」を主要な関心事とします。そうして海洋戦略が定まって初めて、海軍戦略(すなわち、海洋戦略によって海軍に与えられた職務を遂行する上での、最適な艦隊の運用指針)を決定できるわけですね。

 

クラウゼヴィッツ「戦争とは、根本的な意味において、ほかの手段による政策の継続である」

さて、ここまでの話の流れから、ピンと来た方もいるかと思いますが、コーベットもクラウゼヴィッツから大きな影響を受けています。余談ですが、よくコーベットはクラウゼヴィッツの、マハンはジョミニの影響が強いと言われます。

 

先の海洋戦略と海軍戦略の次に、コーベットは、そもそも戦争とはどのようなものかを振り返ります。そこで引用されるのが見出しにもある、クラウゼヴィッツの理論です。

 

「戦争とは、根本的な意味において、ほかの手段による政策の継続である」

 

たとえば、ある国の陸軍あるいは海軍の参謀が、ある敵対国に対する戦争計画の準備を求められたとしましょう。ここで国のお偉方が「勝利するためには、どういった手段が必要となるのか?」と尋ねたとき、もし参謀が真に有能な参謀であれば、彼は次のように応えるでしょう。

 

「それは、なにを巡る戦争なのですか?」

 

もしこれに対する明確な答えが得られない場合、参謀は自国の軍隊を可能な限り精鋭に育て上げる以上のことはできないというのが、コーベットの考え方です。

 

では、なぜ精鋭にすること以外に手の打ちようがないのでしょうか。それは、戦争がクラウゼヴィッツの言う通りの「ほかの手段による政策の継続」である限り、その政策が何なのか(つまり、これから起こる戦争は何を巡るものなのか)が明らかにならない限り、目的が存在しないからですね。

 

手段は、目的を見据えて行使されます。スポーツの練習が分かりやすいですね。たとえば、サッカーなら、個人技重視なのかチームプレー重視なのか、こうした全体の戦略(上述でいう海洋戦略)が最初に決まっているからこそ、練習方針(上述でいう軍隊の鍛え方)が決まります。

 

仮にその戦争がもし「他国からなにかを奪う」ことが目的なら、参謀が採るべき措置は「奪うもの(他国の領土)の地理的状況」と「陸軍および海軍の相対的な強さ」に依存することになります。

要するに、参謀が戦争計画を立てる場合は、必ず国の外交政策がなにを追求しているのか、そして、なぜ外交が失敗して武器を取らざるを得なくなる(戦争になる)と考えているのかを把握する必要があるわけです。つまり戦争とは、国が求めるものを外交政策で取得できなかったとき、それを取得するためのかわりの手段(つまり、ほかの手段=外交による政策を継続する別の手段)ということですね。

 

当たり前のように聴こえるかもしれませんが、クラウゼヴィッツのこの理論には一つ、重要な歴史的意義があるとコーベットは言います。

クラウゼヴィッツが戦争を理論的に扱う以前、参謀たちは一時の流行や最新の事例の表面的な研究に終始していました。そのため、戦争に勝利する上で重要な定数を誤って認識していたと言うのです。

つまり、ある戦争における成功のうち、どれが特別な状況によるものだったのか、どれがすべての戦争に共通する要因によるものだったのかを、誰も測定してこなかったのですね。簡単に言えば、同じ手段を用いても、状況が違えば、当然その効果は変わりますが、昔の参謀たちはその状況の違いを踏まえて戦史を考察してこなかったわけです。

 

*「絶対戦争」と、その概念の頓挫

さて、では本題ですが、戦争とはどのようなものなのでしょうか。クラウゼヴィッツは次のように定義します。

 

「戦争とは、敵に私たちの意志を強いるための暴力的行為である」

 

ここでいう暴力的行為とは、文字通り、自分たちが利用できる限りのすべての手段を用いて、そして意志を最大限に発揮して(なにがなんでも目的を達するという意志で)行われるものです。コーベットは、これを「絶対戦争」と呼びました。

 

しかしクラウゼヴィッツは、すぐに、現実の戦争がどこかこの定義にそぐわないことに気づきます。よって彼は、この「絶対戦争」という概念に満足して、すべての戦争をこの概念でもって分析してはいけない、と考えました。

では、なぜそう思い至ったのでしょうか。

 

クラウゼヴィッツは自身の参謀としての経験などから、戦争にかけられるエネルギーは、たとえば「その目標を達成することから得られる国益の大きさ」などによって、常に加減されることを知ったのです(絶対戦争のように、常に国力総出で相手を潰すとは限らないのですね)。そこから彼は、現実の戦争とは、自国の政策目標を達成するために行われるものである限り、ほかの国際関係(平時の外交関係)と異なる国際関係(戦時の外交関係)となると結論づけました。これが「戦争とは、ほかの手段による政策の継続にすぎない」という定義につながるわけです。

 

ここから言えることは、戦争とは政策目標を達成するための「手段」にすぎないということです。よって、参謀は戦争計画の立案を頼まれたとき、たとえば「偉大なるナポレオンは、こういう方法で戦ったから、我々もそうすべきだ」のような提案をしてはいけません。それは「手段の目的化」だからですね。

 

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《露骨な宣伝》

趣味で海戦の小説を書いていたりします。

 

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