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クラウゼヴィッツ『戦争論』vol.015|方法主義によって摩擦を抑えたり、下級指揮官の指導のクオリティを安定させたりすることができる

《参考図書》

 

《今話で取り扱う範囲》

  • 法主義(第2篇・第4章)

 

     ◇

 

法主義によって摩擦を抑えたり、下級指揮官の指導のクオリティを安定させたりすることができる

いきなりですが、前言撤回エントリーです。

こちらのほうで定期的に追っていただいている方を何名か確認しているため、引き続きブログでこの投稿も続けていくことにしました(pocketのボタンがあるからでしょうか)。すみません許してください、なんでもはしませんけど、できることなら可能な範囲で善処はさせていただきます。

というわけで、このカテゴリにご興味がない方、申し訳ありませんが、スルーでご対応いただけると助かります。何卒……。

 

 

前章の内容は「戦争を扱う理論は、学とすべきなのか、術とすべきなのか」という話でした。そして、最終的に「戦争とは学や術ではなく、社会的生活の領域に属するべきものである」というのが、クラウゼヴィッツの結論です。そして、比較対象として芸術などを取り上げ、戦争を扱う理論には内的連関があり、それを解明することこそが本書の目的であるとします。

 

今回は、その内的連関のあり方の分析です。やや乱暴にまとめてしまいますと、

「法則や原則、規則や指図といった軍隊の行動を規定する法則性を種類ごとに分析し、戦争指導においてはどれが相応しいのかを考える章」

といったニュアンスです。

 

まず、軍事云々を踏まえずに、各内的連関のそれぞれについて説明が入ります。

 

*法則

法則は「認識と行動とに等しく適合する普遍的な概念」として定義されています。性格としては「掟」のように主観的なものですが、認識者とその外界とを等しく支配するものとして考えられます。……と書いても、ちょっとわかりにくいですね。あとで別途、説明します。

 

*原則

原則も、行動を規定する一種の法則ですが、法則ほど確定的なものではないとクラウゼヴィッツは述べます。具体的には、法則のなかに含まれないものが現れたときに、それをより自由に判断する余地を残すための便宜的な概念とされます。

ざっくり言ってしまうと、ある事象を認識したとき、そこに法則が適用されなかった場合、その扱いは認識者の自己判断に委ねられるわけですが、その判断基準となるのが原則ということですね。

この原則のうち、客観的真理に根を下ろし、すべての人間に適用される原則は客観的なものとして扱われますが、一方で認識者の主観的真理に基づき、ある特定の人だけに適合する場合、この原則は主観的なものとなります。そして、後者は一般的に「格律」とも呼ばれます。

 

さて、いったん立ち止まって、この「法則」と「原則」の違いを押さえておきましょう。

法則とは、簡単にいえば「決め事」です。例にある「掟」を考えていただくとわかりやすいのではないかと思います。あるいは世の中にある「●●の法則」と名づけられているものをご覧いただくのも良いかもしれません。たとえば「万有引力の法則」は、誰に対しても適用される普遍的な法則ですね。

 

一方の「原則」は「決め事」ではない点が違います。法則で扱えない事象が現れたときに、それにどう対応するのかを判断する基準だからです。より具体的には(繰り返しになりますが)こちらは法則が存在しない領域において物事を判断するために用いられる基準です。

経済や政治など、絶対の法則が存在しない世界はいくらでも存在します。その中には当然、目の前の事象をどう捉えるのかを規定する普遍的な法則は存在しません。ですが、判断はしないといけないわけですから、そのための基準を会社や国ごとに設けておくわけです。これが「原則」です。

このとき原則が「客観的真理」に根差している場合、この原則は当然、客観的です。データに基づいている原則と考えればわかりやすいでしょうか。一方で、主観的な原則は、それぞれの国や会社が恣意的に設定しているものです。たとえば、セブンイレブンは「お客様に愛される店舗運営」めざす上で「基本4原則」というものを設けているそうです。

 

www.sej.co.jp

 

これは客観的な真理に基づいたものではありませんから、主観的な原則ということになります。

 

*規則

原則と同義で用いられます。また、対象に潜む意図や真理を察する手がかりという意味でも用いられます。これに該当するものとして、クラウゼヴィッツは遊戯(スポーツや盤上遊戯などのことだと思います)のルールや、数学の演算法などを挙げています。後者がわかりやすいですね。演算ルールによって、計算式に潜む真理(解答)が見抜けるというわけです。

 

*指定・指図

これも法則や原則(規則)と同様、行動を規定するものです。ただ、「法則を適用するほど重要ではない些細な行動の仕方を」規定するものという但し書きがつきます。

この「法則を適用するほど重要ではない些細な行動」がピンときにくいかもしれませんが、会社を考えていただくとわかりやすいのではないかと思います(法則の話から少しズレますが……)

 

会社は経営戦略を掲げて、その下で運営されます。ですが、経営戦略は非常に抽象的ですので、現場の社員がそれに従って働こうとしても「結局なにをすればいいんだ?」となってしまいますよね。そこで会社は、それぞれの現場の社員に、この経営戦略に沿った目標を与えるわけです。

そして、管理職である上司がその達成のために部下にアドバイスをしたり、その行動計画を日々管理したりします。このように「経営戦略」のような大きな指針(法則に該当)ではカバーし切れない日々の細かい行動などを現場で規定するのが、指定であり指図です。

 

もっとも、これは少し後の箇所で「戦争においては、その使用をある程度、制限されなければならない」とクラウゼヴィッツは言います。その理由は「兵力を使用する場合、その行動は常に自由でなければならないから」とされていますが、詳しくは語られていません。

 

*方法

これは「あり得る手続きのなかから、常に繰り返される段階に達した手続き」として定義されます。誰もがその効果を認めた常套手段とでもいったイメージですね。「経験則」と考えると、わかりやすいのではないかと思います。

 

*方法主

さて、章題の概念です。

これは「法則や指定によってではなく、常に方法によって行動を規定する立場」として定義されます。

 

つまり方法主義とは、普遍的な法則などに依らないということです(方法ありきだからですね)。言い換えれば、方法主義が機能するためには、ある方法を適用しようとする場合、その適用対象が以前の適用対象と本質的に同一であることが必要です。

ですが、そんなことはまずあり得ないでしょう(クラウゼヴィッツもそう述べています)。よって、方法主義とはそもそも不安定なものだということがわかります。

 

では、それぞれの方法の信頼性・妥当性は、なにによって担保されるのでしょうか。それは「なるべく多くの同一の事例(最も確からしい事例)があること」です(先に「経験則に近い」といったのは、これ故ですね)。つまり、もしある対象に方法を適用する場合、その妥当性は推論によってではなく、過去に同一の方法を適用した事例がどれだけあるのかに依存する、ということですね。推論でその方法を適用することが妥当だと判断するのは誤りであると、クラウゼヴィッツは言います。

 

ここからわかるのは、法主義は平均的な真実の確立をめざしているということです。その方法の「確からしさ」(信頼性・妥当性)は、適用された事例(適用されて成果を上げた、成功した事例)が増えれば増えるほど高まり、ついには「常に正鵠を射るものとなる」わけですね。

 

クラウゼヴィッツは、戦争(戦争指導)においては、「現象は絶えず変化して多種多様を極めるので、法則に値するほど普遍的なものは手に入らない」と考えています。上述の通り、戦争において同じ状況に遭遇することはまずないため、部下に作戦を命じるときは、常に目の前の状況からあるべき作戦を判断する必要があるわけですね。これは言い換えれば、戦争において法則は存在しないということでもあります。この点に関して、世の中には「わざわざ難しく話して(存在しない法則をさもあるかのように企てて)学者ぶる」者がいると批判します。

 

そうした背景を踏まえた上でクラウゼヴィッツは、現場の戦況に応じて原理、指定、方法を積極的に活用しなければならないとします。それによって事例を積み上げなければ、方法主義を体系化(積極的学説、断定的学説として樹立されること)できない=応用が利かないからですね。

 

特に戦術において、この視点が重要であると、クラウゼヴィッツは指摘します。

例えば、数々の事例の蓄積を経て「方法」となった当時の戦術には、次のようなものがあります。

 

  • 騎兵は、やむを得ない場合を除き、陣形を崩さずにいる敵歩兵の襲撃に用いられてはならない
  • 火器は、その射程が確認されない限りは、用いられてはならない
  • 兵力は、決戦に備えて出来る限り温存されなければならない

 

これらの戦術は常に適用できるものではありませんが、ひとたびそれが相応しい事態が目の前に現れたら、その威力を無視してはなりません。そして、その適用の好機を逸しないためにも、指揮官はこの原則を常に念頭に置いておく必要があります。

 

また同様に、規則も念頭に置いておく必要があります。

たとえば、敵が突然退却し、散り散りになって孤立した陣を敷く様子を見て、佯攻(ようこう:フェイントのこと)を察知するような場合、ここに適用されたのは「規則」です。目の前の様子から相手の意図を察するからですね。また、敵が砲兵隊を退却させ始めたら、こちらはそれまでの倍の力でもって追撃をかけるのも「規則」です。これもまた目の前の様子から規定される行動だからですね。

つまり、どの「方法」を目の前の現象に適用すべきなのかを判断するための基準として「規則」が必要なわけです。

 

さらに、戦争指導においては、方法は取り入れられますが、指定の導入には気をつけなければなりません。なぜなら、戦争における行動は常に自由であることが必要だからです。方法は「やり方」であるため、兵力の行動を縛るものではありませんが、指定は「こうしなさい」と指示する内的連関のため、兵力の行動を縛ります。

そのため、指定は基本的に戦争準備において機能し、戦争指導において機能することはほとんどありません。

 

     *

 

戦争においては、こちらが採るべき作戦を決定するために必要な情報が敵の妨害によって集められない、あるいは集めるだけの時間的余裕がないために、多くの行動が不確実な根拠をもとに行われます。そんな中で、平均的な真実である「方法」は一定の成果を確実に期待できます。故に、その確実性を鑑みると「方法」は戦争に欠かせないものなわけです。そのため「方法」は、兵力が原則や規則を容易に遂行(実現)する上で有効なため、戦争指導にも積極的に取り入れられてきました。これが「方法主義」のメリットですね。

 

将帥の目の前に現れる状況は、いつだって「特殊」です。なぜか。過去に同じ状況が一つとして存在しないからですね。

ですが、まったく同じでないだけで、類似点はあります。将帥はこの「特殊」な状況の中から、類似する先例と比較して「一般的な要素」を見極め、それをもとに部隊配置や戦術などを決定していきます。

こうした方法の利用は、下級指揮官において多く見られます。下級指揮官には、将帥のような上級指揮官ほどの卓越した知識や判断力がないため、方法主義によって指針を与えることも大切になってくるというのが、クラウゼヴィッツの考えです。簡単にいえば「こういう状況にはこう対応しなさい」というマニュアルを渡しておくイメージです。実力がない下級指揮官が誤った判断をしないために、方法主義を利用するわけですね。

(地位が下れば下るほど、現場の状況から「確からしいもの」が失われていくため、より方法主義によって道を示してあげることが必要となるというのが、クラウゼヴィッツの考えです)

 

また方法主義には、さらに別のメリットもあります。それは、同じ方法を繰り返し練習することで、部隊の指揮における熟練、正確および確実という技能が体得されるということです。これによって、かなり前に説明した戦争の「摩擦」のリスクを減らすことができます。

 

最上位の将帥においては、方法はほとんど用いられません。方法は下級の指揮官になればなるほど用いられます(そして用いられるべきです)。これは言い換えれば、方法は戦術において多く使用されるものだということですね。戦略が領分となる上級将帥の認識対象はあまりに広汎であるため、そもそも方法で機械的に対応できるレベルにはありません。

 

法主義がどの程度まで適用され得るかというのは、将帥の地位によって決まる問題ではなく、適用対象によって決まる問題です。そもそも将帥において「方法」を頼れないのは、戦争計画や戦役計画が「方法」によって規定され、あたかも機械的に生み出されることだけはあってはならないからです(上記の通り、戦闘は方法による対処が可能でも、本来の戦争は方法で機械的に対応できるものではないから)

たとえば、フリードリヒ大王はいわゆる「斜めの戦争序列」なるものを発明し、重用したが、ここには大王の主観が混ざっています。その方法が適切な状況だったという事実や、大王や兵力にその方法が適切だったという事実などです。ですが、そうした主観を踏まえずに、単に(機械的に)模倣するだけの将帥が多くいることをクラウゼヴィッツは嘆いています。方法主義を用いる場合には、この主観が介在しているという前提を忘れてはいけません。

 

そして、方法はやがて時代遅れとなる可能性がある点にも注意が必要です。情勢は知らぬ間に推移しているのに、方法だけが依然として旧態に留まっている場合、これはもはや役に立ちません。ですが、なかには研究と研鑽を怠る精神的に貧困な指揮官がおり、彼らはすべてを自分の常識のみから判断し、どんな場合でも自らの経験が与える方法を使用したがります。

クラウゼヴィッツはその例として、1806年のイエナの会戦におけるプロイセンの動静を挙げています。これはまさに、こうした指揮官の好例、すなわち反面教師として最たるものだと指摘しています)

 

 

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《露骨な宣伝》

趣味で海戦の小説を書いていたりします。

 

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