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本を読んだ気になるブログ

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クラウゼヴィッツ『戦争論』vol.014|戦争理論を学あるいは術として括ること自体に無理がある

《参考図書》

 

《今話で取り扱う範囲》

  • 戦争術か戦争学か(第2篇・第3章)

 

     ◇

 

戦争理論を学あるいは術として括ること自体に無理がある

今回も戦争の理論のあり方がテーマです(短いです)

前回の記事(第2篇・第2章)でクラウゼヴィッツは、戦争理論がどのような経緯から生まれたのか、そしてその時々でどのようなテーマが重要視されたり、あるいは軽視されたりしてきたのかが述べられていました。

今回の第3章で扱うのは、戦争を探求する理論体系は戦争術と呼ばれるべきなのか、あるいは戦争学と呼ばれるべきなのかという問題です。

 

 

1. 用語はまだ一定していない

クラウゼヴィッツは第2章で、知ること(知識)と為し得ること(能力)は別物であると述べていました。ですが、戦争を取り扱う理論体系には、その両者が密接に絡んできます。そのため、この戦争を扱う理論体系に「戦争術」と「戦争学」のどちらの名称を用いるべきなのか、確定されていないと書きました。

ただ、もしこの両区分に則るならば、物を作り出すところのすべては「能力」すなわち「術」で括るべきであり、対する純粋な知識を目的とする領分に関しては、それは「学」と呼ぶべきだと述べました。前者に該当するのが建築術など、後者に該当するのが数学や天文学などです。 

ただ、なかには、ある術のために必要な知識(学の領分)までまとめて、一つの「術」として総括する習慣もあるとクラウゼヴィッツは言います。たとえば、建築術には数学が必須ですが、そこで用いられる数学まで含めて「建築術」と呼んでしまうということですね。

 

ですが、こうしたある「術」の理論体系のなかに独立した「学」が含まれているという事実、そしてその両者をまとめて「術」として括ることは、特に妙なことではないともクラウゼヴィッツは述べています。なぜなら、いかなる知識も術と関連しないものはないからです。たとえば、知識を目的とする「学」に属する数学における演算法則や代数記号の使用は「術」に該当すると彼は述べます。計算を為し得るもの(道具)という認識ですね。

 

このように「術」と「学」を厳密に区分することは、極めて困難であることがわかります。

 

2. 認識と判断とを分離することは困難である

また、この区分を考えるとき、もう一つ取り上げるべき問題をクラウゼヴィッツは提起します。それは「認識」と「判断」の問題です。

彼はあらゆる思惟は「術」であるとします。思惟を構成する認識・判断において、認識を学、判断を術とする学者もいたようですが、クラウゼヴィッツは、認識は学でもあり術でもあるとします。なぜなら、認識したものから推論に用いられる知識を取捨選択する段階で判断という術が割り込むからです。

 

ここで、すべての学が術に属するということを考えると、戦争学よりも戦争術と呼ぶほうが相応しいと考えがちですが、決してそうではないとクラウゼヴィッツは指摘します。たしかにその昔、戦争術は手工業的な性格を持つとして「戦争術」と呼ばれていた時代もありました。ですが、それは外的な要因が作用した結果であり、内的な影響でそう呼ばれていたわけではありません(つまり、戦争理論そのものに内在する性質によって手工業的な性格を持ったわけではなく、あくまでも人間の都合だったということです)。そして、戦争理論を学あるいは術という区分のもとで取り扱うこと自体が、そもそも誤りであるとクラウゼヴィッツは述べます。

 

3. 戦争は社会生活における人間相互の交通の一形式である

それらの流れを踏まえた上で、クラウゼヴィッツは「戦争とは学や術の領域に属するものではなく、社会生活の領域に属するものである」と定義します。なぜなら、戦争とは国家間の利害関係の衝突であり、この衝突は流血によって解決されるものです。クラウゼヴィッツはそう捉えるべき理由の一つとして、貿易や政治と類似性を挙げています。

 

4. 戦争と諸他の術との差異

戦争がほかの術と異なるのは、前述の通り利害の衝突を流血によって解決する点です。それはつまり、意志のはたらきの向けられる対象が「生けるもの」ということを意味します。

 

たとえば、機械的技術の場合、この対象は生命のない「材料」ですが、その場合、意志のはたらき(技術の適用のあり方)は型にはまったものとなります。従来の戦争術は、この機械的技術を模倣して構築されてきましたが、クラウゼヴィッツは「生けるもの」を対象とする戦争が「材料」を対象とする機械的技術を模倣して理論構築を図ること自体がそもそも間違っているとします。

 

また、もう一つの比較対象として芸術を挙げます。

芸術における対象によって規定される精神や感情、いわば観念的技術には、一般的・普遍的法則はないといいます。対象をどう感じるかは、それを見る・聴く・触れる主体によって変わってくるということですね。そして、その対象は「生けるもの」(正確には「受動的な生けるもの」)です。その点、戦争術と近しいですね。

ですが、クラウゼヴィッツは、戦争術のあり方は芸術理論のあり方とも異なるといいます。普遍的法則を不要とする芸術と異なり、戦争術には研究によって解明され得る内的連関(一般法則)があるに違いないというのが彼の主張ですね。そして、その作業こそがこれから本書の中で取り組んでいくことであるとして、第3章を結びます。

 

 

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《露骨な宣伝》

趣味で海戦の小説を書いていたりします。

 

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