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クラウゼヴィッツ『戦争論』vol.005|戦争とは「ほかの手段をもってする政治の継続」である

《参考図書

 

《今話で取り扱う範囲》

  • 戦争はその客観的性質から言って博戯であるがしかしまたその主観的性質から言ってもやはり博戯となる(第1篇・第1章・第21節)
  • このことは一般に人間の精神によく合致する(第1篇・第1章・第22節)
  • とは言え戦争はやはり厳粛な目的を達成するための厳粛な手段である。戦争のいっそう詳細な規定(第1篇・第1章・第23節)
  • 戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない(第1篇・第1章・第24節)
  • 戦争には二通りの種類がある(第1篇・第1章・第25節)
  • これら二種の戦争はいずれも政治的行動と見なされてよい(第1篇・第1章・第26節)
  • 上述の見解から引き出された結論は戦史の理解に役立ちまた戦争理論の基礎を成すものである(第1篇・第1章・第27節)
  • 戦争理論に対する成果(第1篇・第1章・第28節)

 

     ◇

 

戦争とは「ほかの手段をもってする政治の継続」である

前回、戦争には偶然がつきものであるという事実から、クラウゼヴィッツの「戦争とは博戯のようなものである」という言葉を紹介して締め括りました。今回はそのつづきです。

 

前回の部分で、クラウゼヴィッツは「戦争は客観的に見て『博戯』である」と語りましたが、つづく第21節では「主観的に見ても、やはり『博戯』である」と言います。では、なぜそう定義できるのか。そこには将帥の精神的な素養が影響してきます。

 

 

戦争とは常に「危険」な場です。しかし、将帥はその危険に恐怖や不安を感じて冷静な判断ができなくなったり、取るべき行動が取れなくなったりしてはいけません。よって将帥には、この恐怖や不安に打ち克つ「勇気」や「自信」が求められます。これが上述の精神的な素養に該当するものです。

これは言い換えれば、将帥は「自分の決断や行動が本当に正しいのか?」などと常に恐怖や不安を抱きながらも、それを勇気や自信によって埋め合わせて自らの信念を貫くものであるということです。こうした不確かな賭けを勇気や自信をもって乗り切るのが、将帥のあるべき姿というわけですね。

 

こうして、前回に客観的に見て「戦争=博戯」と結論づけたのにつづいて、今回は主観的に見ても「戦争=博戯」であると分かりました。

簡単に言えば、人間が戦争を行う以上、戦争を考察する上ではこうした非論理的=人間的=精神的なものも考慮しなければならない、そしてそうした要素は非論理的なため、戦争は必然的に「博戯」になるというのがクラウゼヴィッツの主張です。

 

     *

 

つづく第23節と第24節は、第1節から第22節までをまとめたような内容となります。

戦争は政治的な理由から引き起こされる政治的な行為(=こちらの意図を相手に強要する手段)です。ゆえに、外部からの影響を受けない純粋な戦争はありえず、戦争に内在する原理=「交互作用」のみによって動くことはあり得ません。だからこそ、ときに軍事活動の一時停止が生じたり、またときに攻撃が強まったり弱まったりもします。

そして、戦争とはこのように不確かなもの=確からしさの法則に支配されたものであるため、次にいかなる行動や決断を実行すべきかは、指揮官たる将帥の意志(そして勇気や自信)に委ねられるというわけです。

 

     *

 

そしてクラウゼヴィッツは、戦争とは「ほかの手段をもってする政治の継続」だと言います。上述の通り、戦争とは「政治的な要因」から引き起こされるものだからです。

 

これは言い換えれば、戦争の激しさは「政治的目的をどのくらい達成したいと望むか」その強さ(クラウゼヴィッツは政治的動因の高まりと言います)に依るということです。これが高まれば、戦争の絶対性は高まり、軍事的行動の規模は限りなく極限に近づいていきます。戦争に内在する原理=「交互作用」による影響が強まるわけですね。これによって戦争の政治色はどんどん薄まっていき、これまで何度か出てきた単語である「純粋な戦争」へ近づいていきます。

対して、戦争の動因が弱まればこの絶対性は弱まっていくので、戦争はどんどん政治色を強めていきます。疲弊した国が交渉や根回しによって決着させようとするといったイメージです。

 

つまりここから、戦争には「政治的動因の強い戦争」と「政治的動因の弱い戦争」があることが分かります。クラウゼヴィッツはこれを「新しい政治が導く戦争」「因習的な政治が導く戦争」といったニュアンスで表現しているのですが、ここでそれぞれの特徴を見ていきましょう。

 

     *

 

まず、第一種の戦争「政治的動因の強い戦争」=「新しい政治が導く戦争」について。

これは「人格化された国家知性としての政治」が導く戦争です。と言っても、そもそも「人格化された国家知性」とはなんでしょうか。これについて本書のなかでは定義が説明されていないのですが(筆者が読み落としているだけの可能性もあります)、おそらく「全国民の意志が反映された政治」のような意味合いだと思われます。当時、厳密にはナポレオンの登場以降、戦争は常備傭兵軍の時代から、全国民が参加する国民軍の時代へと変わりました。これはつまり、戦争計画において国民に対する配慮が必要になったことを意味します。つまり「人格化された国家知性」とは、国民が政治に望むところのようなイメージです。自国民の多くが「あの国の領土を奪え!」と望む=政治的動因が高まる、ということですね。

 

次に、第二種の戦争「政治的動因の弱い戦争」=「因習的な政治が導く戦争」について。

これは強力の使用を控え、慎重を第一に決着を迎えようとする(従来の古い)戦争のことです。こちらにおいては戦争の純粋性が失われるので、第一種よりもより政治色が見て取れます。

 

前者が武力でもって意志を強要するタイプの戦争であるのに対し、後者は武力以外も同様に用いながら意志を強要していくタイプの戦争というわけです。

ただ、いずれの戦争も「政治的手段」であることには変わりがありません。

 

     *

 

そしてつづく第28節で、これまでの議論を総括して第1章の締め括りとします。

まず、戦争には3つの特徴があります。

 

  1. 戦争の本領とは原始的な強力行為であること。そしてそこには敵意と憎悪(敵対感情と敵対的意図)が宿る。
  2. 戦争は博戯としての性質を持つこと。ゆえに将帥の心的活動(勇気と自信)に依存する。
  3. 戦争は政治の道具である。

 

そして、1.は「国民」に、2.は「将帥」に、3.は「政府」に属する要素です。戦争に伴う激情は、戦端が開かれる前に国民が抱くものであり、いざ始まった戦争に伴う不確かさは、将帥の勇気と自信に依存します。そしてその目的は、政治的に設定されなければなりません。

 

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《露骨な宣伝》

趣味で海戦の小説を書いていたりします。

 

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